2013/03/01
悠久の歴史を偲ぶ頼朝挙兵の武者行列です。
● 武者パレード
2013年(平成25年)4月7日(日)
荒天中止(小雨決行)
五所神社11時出発〜湯河原駅11時30分着
● 儀式
五所神社(10:00〜11:00)
武将の名乗り・出陣の儀・焼亡の舞
湯河原駅(11:30〜12:30)武将の名乗り・焼亡の舞・出陣の儀
● 土肥祭(式典・法要・墓参)
平成25年4月7日(日)雨天決行
城願寺境内 12時30分より
土肥實平、頼朝主従法要・焼亡の舞奉納・一般参加墓参 等
※ このイベント情報は、2013年時の内容です。2014年以降の情報は、イベントが近づいてきたら改めてお知らせいたします。
源頼朝旗揚げ武者行列
この行列は、今から約830年前、わが湯河原(当時は土肥郷といいました)の地は、平安時代の末期、関東八氏のひとり豪族土肥次郎實平が、今の小田原周辺までを領地とし、荘園をなしていました。
治承4年8月17日、蛭ケ小島の頼朝挙兵は、この實平が一族をあげ、韮山の北条氏とともに戦略、挙兵、合戦を指揮したものであります。
駅周辺が土肥の館の跡で城願寺(駅裏手300m)は持仏堂でした。
伊豆の挙兵後、この館で頼朝以下300余騎、鎌倉を目指す作戦を練り、軍備を整え石橋山合戦に出陣したものです。
多勢に無勢、不幸にも源平第一戦に敗れ再度土肥の地に退去、椙山に逃れました。
頼朝は實平の勇武機略思慮遠謀に助けられ、土肥の椙山の隠潜、真鶴より海上脱出。
わずか4カ月後、三万の大軍となり鎌倉入り、幕府樹立となりました。(時に實平73歳、頼朝34歳、遠平31歳。實平の高齢パワーに驚嘆)
日本の歴史の中で、この土肥郷約10日間が中世の武家政治発祥の機縁になったので、まさに「その時歴史が動いた」といえます。その後信長、秀吉、徳川幕府に連綿と続く歴史を偲んでください。(源平盛衰記、吾妻鏡に詳しく記述されています。)
源頼朝と土肥實平
湯河原町鍛冶屋の奥山、星ケ山の中腹に自鑑水(じがんすい)という水溜りがあります。
治承4年8月、敗将源頼朝が杉山山中を逃げ隠れてこの水際までたどりついた時、一度に空腹とのどの渇きが彼を襲ってきました。
急いでこの水を飲もうとして首を水溜りに突き出したとき、頼朝の疲れきった無残な顔と乱れた頭髪姿がこの水面に映りました。
自分の惨めな姿を見た頼朝は「これが源氏の曹子の姿であるか。何と惨めな姿であることぞ」と、いきなり腰の小刀を引き抜き切腹しようと図りました。
すると、その時そばにいた土肥實平がいきなりその手を押さえ、「大将たらんものの軽挙かな。一度や二度の敗戦に自害を図らんは、武将の器にあらず。よろしく心遠大に、思い止まり給え」といさめました。
「頼朝が水鏡を見て身のみじめを知り自害をはかったので自鑑水という」とか「自害を図った水だから自害水というのだ」など長い間語り伝えられています。
※ お出かけ、ご利用の際は、事前に最新情報をご確認ください。